古い歴史を持つ剣道は、はじめ武術にその源を発し、武道の一つとして発達してきたものであるから、術としてだけでなく、「道」として我が国民の精神面に偉大な影響を及ぼしてきたのであって、日本民族にとっては切り離すことの出来ない大きな役割を果たしてきたものである。その剣道の中に居合道がある。剣道の中に居合があり、組太刀があり、形があって、総合的に修練されてきたものであることは、古い伝書、免許目録等を見ると明瞭であって、主として武士の必修の科目として、質実剛健、謙譲礼節、克己廉恥の精神即ち日本道徳の一基盤をその錬磨の中に、習得していたものである。
このように居合道は、剣道と一体として発展して来たものだけに、その流派も大変な数に上がり、今日まで守り継がれているものである。昔から居合の達人は剣道の達人であり、剣道の達人は居合にも精妙を極めていたものであった。明治になって廃刀令がしかれて以来、常時佩用しなくなったので次第に人々から刀が遠ざかり剣道を修行する人々からも離れていって、剣道と居合道とが分化の方向に流れたことは残念で、一日も早く、「剣居一相」の本当の在り方に進むことを望むものである。
居合とは、立合いに対する言葉で、居合、居相、抜剣、抜刀術、鞘の中等とも称されて来た。敵の不意の攻撃に対して、直ちに居合わせて抜刀し、鞘離れの一瞬に勝負を決める武術として創始されたもので、抜けば剣道である。
生死を抜刀の一瞬にかける居合道の修行は、死生一如、動静一貫の幽玄な境地まで発展し、心身鍛錬の道となった。居合の「居」とは、体の居る所、と云うことで、立っても居、歩いても居、走っても居である。また、無念無想も、恐怖も、喜怒哀楽も心の居である。即ち「居」とは、その場その時の心身の実在をさしているものである。「合」とは、打てば響き、呼べば応えると云う臨機応変、当意即妙の働きをいう。居合即ち居合わすの意で、行住坐臥、一挙手一投足もゆるがせにしない心の修練が居合の本領である。徒に刀を抜くことだけが居合と心得ることは、大きな間違いであって、その技を使う心気を練り上げて、その時、その場に居合わすことが修行の目的である。
己を立てて人に逆らうときは、敵となり居合も崩れ、抜き放ちて喧かとなるべし。常に人を立てて己を立てず、柔和を第一とすべし。居合の実意を守り、礼儀を正し、人に遅れて身を直くすれば、居合整い天理に叶い、いよいよ天下和順にて、その徳自ら備わるなり。又片時も油断なく、出入起居を慎み、遊山翫水といえども、心を静め用心致し。日夜朝暮、心の油断なく心の敵を作らず、己を責めて己に克ち、過ちを改め勤ることを居合の大事とするなり。と、居合道道歌の一つに「居合とは己がこころに克つばかり人の非を見て人にさからうな」とある。
居合道に求める所は、大変厳しく、座作進退、礼法、心の持ち方、呼吸のし方から厳格で、現代に欠けている日本的作法等諸条件を備えているので、大いに推奨したい。
(財)全日本剣道連盟作成パンフレットより抜粋